[ テーマ: メンタルヘルス ]
2011年2月9日14:39:00
私は芸術療法を行うセラピストです。
芸術療法とは、人が楽しめるクリエイションを行う過程を利用し心理療法を行うもの。
別名「アートセラピー」とも言われます。
その中にも、分野が多く存在します。
音楽、箱庭、絵画、舞踊、文芸、詩歌、造形・・・
あげるときりがありません。
それがの複数を用いて、行うのは「表現アートセラピー」といいます。
そして、私は身体を利用する舞踊運動が専門です。
ここに、体育的な要素とスポーツ医学的要素が孕んできます。
これら「芸術表現」は文化教室などで、趣味として“楽しく”行うこともでき、
生活の潤滑油的存在として、根強い人気があります。
しかし、「芸術表現」にはクリエーション作業というとても苦しい行程を含みます。
それをも楽しめる、“趣味”の領域だけなら、おそらく心理療法として、
芸術療法は確立しません。
作品を作るときのクリエーション作業のハードさは、プロのアーティストたちが
常にぶち当たる壁でもあります。
また、このクリエーション作業というのは、多くの仕事の中でも
とても重要な部分を占める作業だと思います。
私は、プロのアーティストではないけれど、
あの、行程のハードな部分に少しでも触れることは、
心理療法に携わるものとして、芸術療法を行うものとして、
必要不可欠だと考えています。
だからこそ、
私がアマチュアでも、そういったクリエイション作業の部分だけを認めて
仕事を依頼してくださる方々には、誠意をもってできる限りのことをしたいと
考えますし、仕事も受けます。
舞台芸術という、総合芸術を学んだことは、
広い表現方法を学べたという点で、
芸術療法家として活動にはとてもラッキーな事でした。
文章を書くこと、絵を描くこと、造形物を作成すること、踊ること、芝居すること、
生活の中で空間を演出すること、生活環境はアートだという感性をもてること、
色々な面で、クリエイション作業を行うことは、全てがセラピーの現場につながります。
そこで起こった事が、芸術療法を行う現場で、
大きな発見や、力になっていることははっきりした事実です。
引き出しを多く持ち合わせていなければ、グループセラピーで
多種多様なクライエントと向き合ったときに、瞬発性が発揮できません。
いろんな事をやっていて、一貫性がない。アイデンティティがない。
そう言われて、うまく説明できないのは、私の責任です。
実際、芸術療法だけでは厳しいのが事実ですから
何を言われても、返す言葉は全て言い訳です。
芸術表現を通して、心理療法を行うこと。
芸術表現で生まれる、想像と創造の過程を利用して、
人材教育の現場で多くの人と接したいということ(心理療法の応用)
私には、それしかできないです。
人は、みな違う定規を持っている。
そう教えてくれた人に
自分のことを説明できないでいる。
自己同一性がないからだと言われても、
返す言葉が見つかりません。
[ テーマ: 日々いろいろ ]
2011年2月14日22:00:00
今まで、「アイデンティティ強すぎ。ちょっとゆるめて」
なんてことは、何度か言われたことはある。
(意味不明な言葉だけどね・・・こだわりすぎってことかもねん)
「アイデンティティなさすぎ。なにがやりたいのわからない」
そう、ある人に言われて、ご飯を食べられずにいたら
友人のピアニストが言った。
「その人、ホントにくみちゃんが何をやってるのか、知らないんだね。
たぶん、趣味程度でいろいろやってると思われているよ。あははー」
そんな・・・あははーて・・・。
あははーで済まされることか・・・それ。
アイデンティティがない=全人格否定
という公式が浮かぶ私にとっては重大事件なんですけど。
「作品をみてもらえば、わかるんじゃない?」
と言った友人。
果たして、それで解るのか・・・。うーん。
謎だ。
観てもらったところで
「意味わかんない」で、済まされそう。
何をやりたいか?
芸術療法だってば。
お絵かきして、お歌歌って、楽しく踊って、
なんだか、眉唾もんと思われてる感ありだ。
コンテンポラリーダンス/モダンダンス(創造的ダンス)が、
なぜダンスセラピストの資格取得に必須なのかなんて全く興味がないはず。
そこに、人間の創造性=精神が写し出される。その表現がダイレクトに表出するからです。(表現病理学)
そこを体験しないと、セラピーテイクにたどりはつけない。
それを忘れると、芸術療法法を行うセラピストとしては意味なし。
芸術創作には定規をひとつだけを使うことはありえない。
三角定規、雲形定規、分度器、コンパス・・・、それらを全く使わないこともあれば、
もっと、新しいもの、未知の定規が生まれることもある。
「私、弁護士になる!」とか言い出したなら
一貫性がないと言ってほしい・・・。
いろんな定規を使ってみて。
私は、いろんな定規を使ってみてるんだけどな。
[ テーマ: 日々いろいろ ]
2011年2月17日00:22:00
久しぶりに、恩師 神沢和夫氏翻訳で、ラバンの 『身体運動の習得』を読んでいる。
学生時代、訳もわからず読んで
その後何回か読み返している。
何回か読み返すのは、読み返さなければならない本だから。
私の本棚には、そんな本がたくさんある。
そんな本の中には、手塚治虫を含む漫画もあるし、
ニーチェやスピノサなどの哲学書もあれば、
人気小説、写真集、詩集、MOMAで買ってきた画集、絵本・・・。
その本たちを、私は捨てることはない。
だって、また読み返さなければならない、重要な要素が潜んでいることが多いから。
本なんか捨てれば。
邪魔だし、売れば。
そう言われた事がある。
その度に、「だめ。必要だから」という。
今、心理療法をやっていて、高校生の頃熱中した、安部公房の本が、役に立つことがある。
父親の研究室から拝借した、東洋医学大事典などは、
今、教本の様になるとは、当時、想像だにしなかった。
からだの事が書いてあるし、からだの絵がいっぱいー♪
その程度の関心だったのに。
本という友達は、“商売道具”となって、
ちょいとなじみの寿司屋のような
妙ちくりんな親近感をも確立している。
で、やっぱり、今やってることに必要だと、実感する。
作品を創るときも、メソッドを発見し挑戦してみたくなったときも、教育の現場でも、
本は、私をヘルプしてくれる。
誰も教えてくれる領域ではない、どこにも師がいない現在の仕事。
(基礎としての概念はあっても、方法論は全てのセラピストが独自に開発するから)
自分が産み出さなくてはならない作業を、ずっと続けなければいけない私を
少しでも助けてくれる本。
クリエイションする事への、良き理解者、良きアドバイザー、良きメンター、良き友人。
それが、本だと実感する。
恩師が翻訳した、ラバンの本も、20年前に捨てずに
今、ここにこうしてあって、私を助けてくれている。
恩師にも感謝、本にも感謝。